漢字教育士ひろりんの書斎くつろぎのソファ>
2015.1.  掲載

 我思う、故に…

 どうも体調が悪くなってきた。といっても、胃が悪いとか肩が痛いとかいうのではない。自分が生きているはずのこの世界が、なぜか現実感を失い、まるで退屈なテレビを見ているように感じられるのだ。
 以前からたまには、頭がぼうっとして、目の前の風景が非現実的に感じられることがあった。しかしそれはほんの一時で元に戻り、そんなことがあったこともすぐに忘れ、普段は少しも気ならなかった。しかし、だんだんと、症状が起きる頻度が上がり、一回当たりの時間が延び、さらに症状は進み、自分の周りのものが、人であろうとビルであろうと動物であろうと、全て巧妙に作られた作り物のように思えてきた。その中を自分が歩いて、何かに触ったりしても、手から伝わるのは変な手袋をして物に触るような感覚であり、また、外から聞こえる音声も、安物のイヤホンを通して聴くような現実感のないものとなった。
 これは病気だと思い、ネットで調べてみると、「離人症」というものがあることがわかった。私の症状によく一致する。
 だが変だなとも思った。離人症に関する記事はたくさんあり、決して珍しい症状ではないとされている。しかし、私は学生時代に心理学も学んだが、その際に離人症について聞いた覚えがない。忘れてしまっただけかもしれないが、今の私には、ネットの記事そのものが、私の症状に合わせて作られた偽物のように感じられるのである。

 その日、私は恋人に会うために街を歩いていた。ついこの間までは、会うことが楽しくて仕方なかったはずだが、今は彼女の求めに応じて、半ば義務感で待ち合わせ場所に向かっていた。先に着いていた彼女が、私を見つけて微笑んだ。だがその笑顔も、私の目には2次元のアニメのように薄っぺらく映った。
 その時、前方から一台の車が走ってきた。明らかに尋常ではなく、がたがた震えながら猛スピードで、私のいる歩道に向けてまっすぐに突っ込んでくる。近づくにつれて、それはまるで血に飢えた狼のような凶暴さをむき出しにした。こんな時になって、私の感覚にリアリティが復活したようだ。私は凍り付いて立ちすくみ、夢なら覚めてくれ、と心の中で叫ぶことしかできなかった。

 私は再び意識を取り戻した。とはいえ、先ほど終わった「人生」での意識とは全く違う意識である。
 まず思ったのは、何か異常事態が起きたな、ということである。これまで幾度となく繰り返してきた「人生」では、その「世界」におけるごく標準的な生存期間を過ごし、事故などではなくごくありふれた死を迎えた。せいぜい数回程度の人生しか思い出せないが、それ以前もこんな突然の終幕はなかったと思う。私に何か変化が起きているのか。私も老化しているのか。私もいつか、本当の死を迎えるのか。

 次に私の思考は、より根源的な疑問に向かう。
 私はいったい何者なのだろう。誰が私を作ったのだろう。私はいつからこうしているのだろう。いつまで存在し続けるのだろう。そして、何のために何度も何度も様々な「人生」を送っているのだろう。
 終わった「人生」と次の「人生」のインターバルで、私はいつもこんなことを考える。
 私には意識はあるが、それだけだ。動かせる身体もなく感覚もない。ひょっとして、先ほどの「人生」で見た脳やコンピューターのような「実体」があるのかもしれないと思い、その実体が広大な宇宙にぽつりと浮いている光景を想像する。だがすぐに否定する。夢から覚めたばかりのときは、ついつい先ほどの「人生」での世界観を引きずってしまうが、ここではそんな想像は無意味である。どうせ何もわからず、調べようもない。この世界に「時間」や「空間」というものがあるのかどうか、それさえも分からないのだ。

 そういえば、先ほどの「人生」では、私と同種の生き物が濃密に存在していた。しかし、夢から覚めたこの世界に、私と同じように「人生」を送っている仲間はいるのだろうか。いたとしても永遠に触れ合うことはないだろうが。
 そう考えた私は、先ほどの「人生」で知った哲学者の言葉を思い出した。

 「我思う、故に我あり」

 私は考える。ということは、考える主体である私は間違いなく存在している。これは真理である。しかしこれを裏から読むと、「あなた」や「彼」は、考えているのかどうか、私にはわからない。したがって、彼らが本当に存在しているかどうか、私にはわからないということになる。
 先ほどの「人生」でこのことに気づき、さらに「人生」そのものがバーチャルなものではないかと疑いを持ち始めたため、「人生」を強制終了させられたのではないか。夢を見ているときに、「これは夢だ」と気づいた途端、目が覚めるように。
 だが、「人生」を疑うような事態を自動的に避けるように私はプログラムされているはずではないか、と考えたが、この考えも先ほどの夢に引きずられているのかもしれない。そうでなければ、やはり私自身が劣化してきているのかもしれない。
 いずれにしても、考えることはできても何もわからない。私にできることは、また次の「人生」を「生きる」ことだけだ。
 そろそろインターバルも終わりのようだ。次の「人生」の選択をしよう。

  液体状生命、分布密度-低、同種を捕食、性別-3種…。物理定数などは自動設定。
 さて、今度はどんな「人生」を送ることになるか。